@article{oai:niu.repo.nii.ac.jp:00000856, author = {山本, 主税}, journal = {長崎国際大学論叢, Nagasaki International University Review}, month = {Mar}, note = {今を去る220年前の寛政4年(1792年)4月1日の午後7時ごろ、前年から続いていた雲仙普賢岳の地震と噴火の影響を受けてか、眉山自体の噴火活動が原因なのかは未だ判然としないが、眉山が山頂を含めて一気に崩壊、城下の市街地を飲み込み海へなだれ込んだ。そのため有明海では大津波が発生し、島原側で1万人、熊本側で5千人合計1万五千人もの死者を出す我が国最大の火山災害となった。「島原大変肥後迷惑」とはこの時生まれた言葉である。この島原大変の時、7万石の小藩である島原藩の藩士たちは、一糸乱れず見事な救護活動と災害復旧活動を展開したが、このことは全国的にはあまり知られていない。未曾有の災害の中で何故に彼らはそれほどの活動が出来たのか、彼らの当時の活動の記録を読み解くことから今後の我々が災害に備えて学ぶべき示唆や教訓を明らかにしてみたい。}, pages = {185--197}, title = {「嶋原大變記」にみる島原藩士の精神と救護活動}, volume = {13}, year = {2013}, yomi = {ヤマモト, チカラ} }